エッセイ
2022-11-10(第5772話)チョット中休み エッセイvol.141 番外とん&どこスピンオフvol.3 ふるまい紀行 島原〜長崎編(26)~供養・葛藤〜
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番外とん&どこ スピンオフ企画
ふるまい紀行 〜島原・長崎編〜
トピックス3つ目
あぁ殉教・・・苦しみの一夜
続きです。
原城後供養が終わり、長崎に向かう前夜、
「西坂の丘」への行き方を調べがてら、
少しだけ“勉強”をしたんだな。
どんな勉強か?
それは、
「殉教について」
YouTubeで「沈黙・サイレント」も、再度チェックした。
でも、感情が動かないて程度に、ささっと見ただけ。
殉教の、辞書的意味も調べてみた。
「自己の信仰のために苦難を受け、
命を捨てた人々を殉教者といい、
その死を殉教という」
いくつかの文献を読みにいった。
全く知らなかった世界観。
色々知識を得ることができたが、
余計に、混乱し始めたんだ。
ワタシの任務である「ふるまい供養」は、基本
「魂の救済」ってもん。
ところが、もう、殉教者たちは、救われているのではないのか?
そう思ったのだ。
殉教者たちは、
「嫌だ!死にたくない!」と争っていたのではなく、
自ら死を選択したのではないか?
信仰という大いなる救いが、そこに、すでにあったのではないか?
キリスト教会、発行の文献にあった記事の一節
「神が与えた試練として、厳しい現実を受け入れよ。
自らの力ではどうしてもできないことを謙虚に受け止めよ。
あなたたちの主であるキリストに倣って。
キリストは、時の為政者によって抵抗することなく十字架に掛けられ、
人類の尊い犠牲となって民を救ったではないか・・・
こういった尊い精神こそが、殉教のメッセージなのです」
こうもあった。
「殉教者の遺物を尊び、死の記念日を祝い、
やがて殉教者は聖人として崇敬されるに至った」
瞬間、違和感を持った。
「これって、どうよ?」
「キリスト様は、これで、喜んだのだろうか?
教徒が自分を真似て、とんでもない痛み、苦しみを経て、
信仰のために死んでいくのを
よし!と思っていたのだろうか?」
と、ここで、ブレーキがかかった。
こっちを考えるべきではない、そう感じたのだ。
ワタシは、キリスト教信者では、ない。
ナーンにも知らないではないか!?
だから、こっちに行ってはいけない。
が、しかし、待てよ。
そんな部外者、新参者が、供養なんてできるのだろうか?
魂の救済なんて、失礼にならないだろうか?
また、ここでブレーキがかかった。
存在たちは、この辺り、全てお見通しのはず。
その上での任務なのだ・・・
どーなるのか、わからない。
が、委ねよう。
師匠に問うた。
勉強、準備は、これでいいですか?
答えがあった。
「よくできた。
(準備は)もう良い。
気楽に行こう」
いつもの明るい“声”だ。
よし!
何も考えるまい。
気楽に、行こう。
で「西坂の丘」へとなったのだが・・・
ミニ・ミニ ボイス
“神楽坂”スタン&ラテン科、終了。
ご参加くださった皆さん、ありがとうございました。
めっちゃ久しぶりって感じのトーキョー。
ナーンか、見るもの、聴くもの、新鮮。
1ヶ月前と、ぜーんぶ違う!
てな、ワタシ的状態の中でのレッスンとなりました。
スタンも、ラテンも
うまくいかないところは、エネルギーの低さが、根本原因。
それ(エネルギーが低いこと)に、気づいていないのも、
問題だぁ。
また、
ダンスって、ホンマ、その人の本質が“出る”のよねぇ。
治りにくいところへ到達しているわ。
ふー。
2022年“身道”の年に、
自分本来のカラダというより、
人間本来のカラダへ、蘇るキッカケ、掴んでほしいのだが・・・
どーしよう!?
「ジュンコが、頑張りなさい」
by 師匠
お、やっぱ、そうくるのね。
よし。
対策、練るぞ。
と思っていたら、
ラテン専科にて“福音”が・・・
「心地よさの追求」
「感情と感覚の分離」
神回になったぁ。
よきかな よきかな。
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